『夜明け前――呉秀三と無名の精神障害者の100年』

先日の12月22日、『夜明け前――呉秀三と無名の精神障害者の100年』を東京工科大学蒲田キャンパスで観てきた。最初に映画の上映があり、その後に3人の登壇者(山田悠平さん・川﨑洋子さん・越智祥太さん)による映画をめぐるシンポジウムというメニュー。会場にいらしていたのは400名ぐらいだろうか。当事者や家族会とおぼしき方々など、たくさんの方々がいらしていた。

 

映画は、呉秀三らが100年前に刊行した『私宅監置の実況およびその統計的観察』のための調査が行われた時に成立していた社会状況とそれに対する呉の問題意識の展開を、彼の中欧留学の足跡だったり、精神医学史家や松沢病院の関係者の言葉を導きにして描き出したものだった。

 

映画は啓蒙的で、勉強になる作品だった。けれども他方で、そこに描かれていない事柄で、かつ本来だったら見落とすべきでなかったと思うこともあった。シンポジウムにおいて山田さんが指摘されていたこともそのことだった。

 

一つ目は、この映画が呉秀三という医師の立場と視点から組み立てられていること。映画が上記の論文刊行100年を記念したものなので、このことはじゅうぶんに理解できる。けれどもこの調査や論文が、そこで対象とされていた精神障害者やその家族、あるいは現在の精神障害者や家族から見て、どんな意味を持つ(持っていた)のだろうか。映画の主題が主題だけに、そのことの不在がとても気になる。

 

二つ目は、「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸のほかに、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」という、上記論文の有名な一文について。これは映画の中で何度も引き合いに出されていた。この一文では、精神病を持つことの不幸は疑われず、この国においてこの病気を持つことの不幸の方が強調されている。けれども本当にそうだろうか。もし精神病者に十分な治療や支援が与えられるのであれば、精神病を持つことじたいをことさら不幸であると述べて強調することもなくなるのではないか。

 

以上の二つの点からは、現在の精神障害者観における欠如をうかがい知れるように感じた。