Hacking 2003

"Indeterminancy in the past: On the recent discussion of chapter17 of Rewriting The Soul," in History of the Human Sciences, 16(2), pp. 117-124.

遅まきながら、読んでみた。主にシャロックたちによる書評に対するリプライ。そこではハッキングが焦点を当てていた事柄とはズレたところにシャロックたちの指摘が向かっているという点が、述べられている。
たとえば探検家マッケンジーの事例について、記述の時点・時制に注意すれば、こうなるとシャロックたちは整理していた。すなわち、マッケンジーが14歳の少女と結婚した当時、この行為は法的にも道徳的にもなんの問題もない行為だった。しかしその行為は、現在であれば「幼児虐待」と呼ぶだろう行為だった、云々。
別にこの整理には問題はないだろうし、ハッキングもじっさいそれに同意する。ただし彼が注目しているのは、そうした時制の問題をさっ引いてなされる遡及的再記述が持っている、(運動としての)情熱だと強調している。たとえば「アレックス〔=マッケンジー〕が小児性愛者であることを忘れるな!」というNYタイムズ誌に載ったある発言に見られるような。
じっさい、かの書において、マッケンジーの事例に言及しながらハッキングはこう述べていた。遡及的再記述の適切性の線引き(確定)の問題はあるだろうし、それをめぐって様々な判断もあろう。けれども、彼が関心を持っているのは、そのような妥当な線引きについての判断ではない。むしろ線引きの問題に避けがたく絡みついてくる政治なのだ、等々(Hacking 1995:244)。
そして、研究上の力点をこうした現在の状況に据えるならば、ある行為がなされた過去の時点に置いて、その行為について現在なされているように記述される(されない)ことは、確定されてはいなかった、ということになる(たとえそうした現在なされている記述が論理的に間違っていようとも)。

とまあ、こんな感じで、http://d.hatena.ne.jp/Minik/20050913で僕が書いといた事柄は、さほど的はずれじゃなかったと思う(依然として隔靴掻痒どころか、痒いところばかりだけれども)。
ただ、現在までのメモは、ハッキングとシャロックの論争を書評対象者と書評者との関係として読んできたにすぎない。煎じ詰めれば、シャロックらの読み方は、細部には異論はないものの、かの書物の焦点を外しているのでは、というのが今のところの結論。そのせいか、僕の書き方はハッキングに寄り添ったものとなってきた。
けれどもこの論争は別にして、僕自身がハッキングの議論をどう理解すべきかについては、別問題。とりわけ彼の議論が、資料をどのように組織していくなかで成立しているのかについては、不明な点が多い。そしてこの点を深めていく意味で、Iさんの指摘はとても参考になる。
http://d.hatena.ne.jp/fukusuke2002/20050816
http://d.hatena.ne.jp/fukusuke2002/20050819

あと、どうでもいいことだけれども、一言。
今回、時間がないので訳本も取り寄せて読んでみた。邦題の問題だとか、注と文献が断りなしにさっ引かれている問題はしょうがないのかもしれないけれど、それに加えてあまりにも・あまりにも重要な部分で、誤訳が多くありませんかねえ?