覚え書き:イアン・ハッキングの精神障害の哲学について

イアン・ハッキングが亡くなってしまいました。トロント大学の記事によると以前から健康を害していたそうで、たしかにこの10年、まともなアウトプットがなかったことから予想していたのですが、この5月10日に亡くなってしまったとのことです。残念です。また、今回あらためて、ハッキングから学んできたことの多さを感じてもいます。

ご存じのとおり広大な領域において、しかもユニークな手法で仕事をしてきた人です。なので私はそのごく一部、精神障害の哲学の領域を中心に彼から学んで来たにすぎません。にもかかわらず、学んだことはとても多く、そこからまた多くの課題を得てきたと感じています。

彼の精神障害の哲学を考えるさい、二つの大きな仕事があるように感じています。ひとつは神経症周辺の仕事で、もうひとつは自閉症に関係する仕事かな、と思います。そしてこうした二つの領域のいずれにおいても、精神医学などの人間科学における知識とその対象である人間との相互作用を焦点に据えていたといえると思います。

第一の神経症周辺の仕事の中心となるのは、多重人格障害の興隆を主題としたRewriting the Soul(Princeton U.P., 1995年;邦訳はなぜか『記憶を書きかえる』というへんてこりんなタイトルで、しかも断りなく訳と注が一部略されているという、とても残念なものとなっています)と、その補遺とも言え、遁走を主題としたMad  Travellers(Verginia U. P., 1998)かな、と思います。いずれも身体的基盤がない精神障害であり、しかも時代的地域的にローカルな流行と衰退が見られる精神障害を扱っています。こうした障害が出現する社会的な条件を、ローカルな文化と精神医学、そして人々の個的事情との関係から見出し、考察していくものと言えると思います。

前者の作品(Rewriting the Soul)については、1980年代北米における多重人格障害の症例数の急増とそれにともなうメモリー・ウォーズを対象としています。具体的には、外傷的記憶をめぐる精神医学説が、1960年代半ば以降の北米における児童虐待概念の普及と浸透を背景に、一部の人々の過去想起の資源として利用されていくこと、そしてこのことが多重人格障害の症例数の急増と、さらには過去の虐待行為をめぐる数多くの係争を引き起こすに至る事情が、明らかにされていきます。

他方、第二の自閉症周辺の仕事においては、上記とは事情が異なります。まずは自閉症(そしてまた統合失調症)の場合、上記の障害とは異なり、身体的基盤が強く想定されています。したがって第一のケースのように、社会文化的な条件だけに注目して検討していくことは許されません。むしろこうした仕事が、想定される身体的原因とどのような論理的関係にあるのかをクリアしないといけないことになります。

そこでその予備的な仕事としてとても重要なものが、"Taking bad argument seriously" という1997年にLRBに掲載されたエッセイで、これは後に手を加えられてThe Social Construction  of  What?(『何が社会的に構築されるのか』岩波書店, 2006年)の第4章として刊行されています。ここでは、精神障害についての議論をめぐるよくあるジレンマ、すなわち身体的原因を持つ障害か、それとも社会的に構築された(あるいは社会に原因を持つ)障害なのかというジレンマを解消することを行っています。社会学的な説明からすると、その主要な症状とされるものが歴史的に変化してきたことを踏まえると、自閉症統合失調症は不変の身体的原因をもつ自然種ではありえず、社会的な構築物であると考える傾向があったわけです。そしてまた、こうした可変性は一方で認められつつも、他方で統合失調症自閉症については身体的な基盤も否定しがたくあるわけです。こうしていま述べたジレンマが生じます。

しかしハッキングはこうしたジレンマを、H. パトナムの意味論を援用して回避しています。一方で自閉症統合失調症)という語は、身体的基盤を指示対象とするとともに、他方で、そのステレオタイプとして時代ごとに可変的な典型的症状を意味する、と考えればよいわけです。こうしてジレンマが不可避ではないことを確保した上で、そのうえでこの可変性を、精神医学などの人間科学における知識とその対象である人間(障害をもつ当人やその家族など)との相互作用に求めていくことになります。そしてこの相互作用のなかには、身体的原因についてのありうる発見という事態そのものも含まれ、こうした発見じたいが研究と治療の対象である人間のあり様に一定の影響を与えていくと考えられるようになります。

残念なことに、1997年の論文で示されたこうしたアイデアは、00年代から2014年までのいくつかの論考で断片的に追求されてきたにとどまります。とはいえこのアイデアは、後の研究者に引き継がれ、とても重要な研究成果を生むに至りました。なかでもGil Eyal, Brendan Hart, et al., The Autism Matrix (Polity, 2010年)、およびChloe Silverman, Understanding Autism (Princeton U.P., 2012年)は、自閉症の病因論と自閉症児家族、そして自閉症児本人との複雑な相互作用を描いているとても魅力的な研究だと思います(ちなみに、ハッキング自身も2014年にはこうした議論の要点をみずから述べています)。

精神障害の哲学におけるハッキングの仕事をざっと思いつくままに記してきましたが、もちろんいろいろな批判や課題はあると思います。この辺りについてはきちんとした展望を得られていないので、私じしんの関心に引き寄せて述べると、課題の中心には「相互作用」があるように思います。具体的に言えば、まずは「相互作用」の概念の不明確さ、そしてまたこの相互作用を対象にした記述の欠如——こうした二点かなと思います。

相互作用の概念の不明確さというのは、具体的にはこうした感じです。人間科学における知識(たとえばその分類概念やそれに結びついた知識・信念)はおもに、その対象である人間にも入手可能になることを通じ、その存在のあり方や意図的行為のあり方に影響を及ぼしていく。たとえば新しい存在のあり方の可能性を出現させたり、新しい意図的行為をなすことを可能にさせたりというように。ただし一部には例外があって、乳幼児や認知的な障害を持つ人たちの場合には親密な人々とのかかわりを介してこうしたことを可能にしていく。こんな風にハッキングは相互作用のことを考えています。
しかし、この最後の例外として述べたものを考えてみると、相互作用の概念には曖昧さがあります。とくに明確な自己意識が不在でも対象と相互作用し、それを変容させていくということがありうるようにも思えます。そしてさらに実際、まったく意識がなくともこうした変容を引き起こすような例は自然のなかにも多く見られるように思います。たとえば家畜動物の馴化だったりさらには品種の開発は、人間の分類と動物の相互作用の結果と言えそうですし、先の述べた例外とどこがどう違うのかは明確ではありません。

このように考えるとハッキングの述べる相互作用の概念は不明確である——このようにより古いところではMary Douglas(How Institution Thinks , Syracuse U.P, 1986年)が、また最近ではMuhammmad Ali Khalidi (Natural Categories and Human Kinds , Cambridge U.P., 2013年)が、批判しています。また、これとは違った側面から、とくに精神障害に関わる相互作用の概念について、その中身には様々な関係性が含まれているのではないかとの批判を、Serife Tekin ("The Missing Self in Hacking's Looping Effects," Kincaid, H. and Sullivan, J. eds., Classifying Psychopathology, The MIT Press, 2014)で行っています。そして実際、ハッキング自身も、のちに「相互作用する種類」の概念を放棄したことを踏まえると、こうした曖昧さを十分承知したうえで、ただし彼の関心ある主題を追っていく上では有効なものとして利用していたと考えることができるように思います。

第二に相互作用を対象にした記述の欠如ということについては、一言で言えば、人間科学の知識とその対象である人間との相互作用とハッキングは言いながらも、その相互作用には十分な注目をしてないじゃないか、といった批判となると思います。部分的には上記のTekinの批判にも重なりますが、まずはこうした批判でとても重要なのはSue Campbell, Relational Remembering (Rowman & Littlefield, 2003)でしょう。内容はRewriting  the  Soulに対する批判で、一言で言うと多重人格障害の病因論のことを、ハッキングが思い描いていたのとは異なり、女性たちがかつて被った性暴力を共同的に想起するための有益な資源でもあった点において肯定的に評価するものです。具体的には、女性たちが被ってきた認識的不正義を克服するために、自助グループやセラピーの場においてこれらの資源が利用されてきたことを踏まえて批判がなされています。

また、これととてもスタンスの近い批判は、Michael Lynch("Narrative hooks and peper trails," History of the Human Sciences, 8(4))によってなされています。ざっと一言で言ってしまうと、上記の多重人格障害の病因論のもたらした「記憶の政治」あるいは「記憶の戦争」というが、ハッキングは、そう表現されている係争について実際の想起の実践をほぼ注目していない。しかしこうしたセラピーや自助グループの場の特徴(たとえば記録等の在不在、裏付けの在不在等々)について注目しないと、こうした政治や戦争がなぜ生じてくるのかは特定できないだろう——こういった批判です。こうした批判に対しても、ハッキングは比較的好意的に受け入れつつも、自分の関心を維持していくという態度を示しているように思います。

 

……と、精神障害の哲学におけるハッキングへの批判を見てきましたが、いずれにおいてもさらに掘っていくべき点はいろいろとあるようです。個人的な思い出を言うと、ハッキングの本を自分の関心に引きつけつつ読み始めたのは1996年頃と記憶しています。切っ掛けは、神保町の東京堂書店の洋書売り場でした。なんだか暗い怪しげな表紙の本を見つけ、手に取ってみるとRewriting the Soulというタイトルで、著者はハッキングでした。当時から『言語はなぜ哲学の問題になるのか』に親しんでいたこともあり、さっそく読み始めました。阪神淡路大震災地下鉄サリン事件を経て、当時はとても暗い時代だったと個人的には感じていました。トラウマという言葉を見たり耳にする機会も多い時代でした。当時の自分にとってこの本は、とくにその中心をなす第17章An indeterminancy in the pastは、難しすぎたのですが、ようやく何となくつかめてきたかな、という感じで、もう少し先に進んでみたいと感じているところです。

 

昨日にハッキングの訃報を聞いて、思いつくままにここまで走り書きしてきました。ですので整理がまったく足りていないのですが、同じ関心をお持ちの方々にもし何かお役に立てればと思って、公にしてみました。誤りや遺漏などがありましたら、ぜひお教えいただけるとうれしいです。

 

また、最近、偶然ですが、ハッキング論を刊行しました。お手にとっていただけますとうれしいです。

  • 浦野 茂「精神医学の概念を用いて自己を理解すること:文化的環境・行為の遡及的再記述・道徳的評価」, 佐藤貴宣・栗田季佳(編著)『障害理解のリフレクション:行為と言葉が描く<他者>と共にある世界』ちとせプレス, 241-274.
    http://chitosepress.com/books/978-4-908736-30-8/