Rewriting the Soul の、超(要)約

と、断ったうえで、ハッキングのRewriting the Soulについて、試しに書いてみる。トンでも要約のおそれが大。内心、ビクビクなんだけど……。

虚偽記憶をめぐる論争は、記憶の知識の土台でなされる倫理的・道徳的論争である。その中心にあるのは、多重人格運動(多重人格者、セラピスト、理論家)であり、またそれへの批判的運動である。一方は回復した記憶・病因論に支えられ家族を訴え、他方はその記憶の虚偽性を主張し家族を支援する。
著者はここに、記憶についての科学的知識と倫理的・道徳的係争との結びつきを見る。つまり、そう自らから語る人びと・そう治療される人びと・理論的作業する人・批判する人びと……。彼らの言葉と振る舞いを、倫理的・道徳的・政治的(にもかかわらずそこに科学がまとわりつく、つかざるをえない、でないと主観的と片づけられ、論争にすら入れない)なものとして著者は見ており、また聴いている。
それは二重の意味でなのだ、おそらく。
まずはそこに激しい道徳的係争があるからだ。けれどもそれにくわえて、第二に、真偽を決することの出来ないものだからだ。そもそもループして遡及的に語る語りに、どう真偽を言えというのか!(「過去の不確定性」、ありていに言えば、ナンセンスということになるのだろう)。またおなじくループゆえに、どうやって理論に偽を言えというのか!(「自己正当化的真実」)、理論は資源になっとるのに。だから真偽(だけ)で批判も出来ないし、その基準で記述(暴露)いっても、その内実を記述したとはとうてい言えない(暴露的構築からの距離・不満)。
しかしそもそも、なぜ多重人格をめぐる倫理的・道徳的・政治的なものは、記憶の科学と結びつくのか?一見すると、記憶についての表層知識は、倫理的・道徳的係争ときわめて希薄な結びつきしかもっていないように見えるのに(現にJ. ハーマンはそこに立って理解していた)。
しかし、辿ってみるとわかることがある。記憶の科学、いや、そもそもの記憶についての事実的知識の可能性とは、どのようにして開かれたのか。その開かれ方を見ると、記憶の科学と倫理・道徳的係争とは、別物ではなかったことがわかる。同一の事態だったのだ。実証主義以来、魂(超越的自我)を語る道徳的係争の言語は、記憶の科学の言語においてしか語りえなくなっていたのだ。そして自己を記憶物語と見るのも同じ穴のムジナだろう。
・「しかし、そんなんでいいのか? けっしてそれじゃすまないはずだ」。「じゃあどこがいけないのだ」。「自律と自由に反しとるのだ」。おしまい。

Rewriting the Soul: Multiple Personality and the Sciences of Memory