La gaya scienza

F. ニーチェ『悦ばしき知識』ちくま学芸文庫, 132-3頁。
ある経緯で目にすることになったのですが、この種の箴言に自己を投影してしまうことの危険を承知しつつも、印象を記しておきます。

創造者としてのみ! ーー私がこれまでもっとも苦労してきたこと、そして今なお引きつづきもっとも苦労していること、それは、事物が何であるかということよりも、事物がどう呼ばれるかということの方がはるかに重要であることを洞察するというその一事だ。ある事物の声価、名称、外観、効力、その通例の容量と重さーーその由来からすればほとんど大部分が事物に衣装のように着せかけられた従ってその実体のみならずその皮膚とさえも全く無関係な一個の誤謬・一個の恣意物だがーーは、それに対する信仰および世々代々にわたるその信仰の増大によって、事物に段々といわば癒着させられ融化させられ、ついにその事物の身体そのものとなったものである。最初には過小であったものが最後にはほとんどいつも本質と化し、本質として作用するのだ! 

  • 名と対象との、切り離せないしかも偶然的な、関わりについて。そして具体的経験における関わり(ex. 「呼ぶ」こと)として(ついでに個人的には、語ることと行うこととのずれをふくんだ接合について)。
  • ところで他方、名前の恣意性。→虚偽性?。とすると...

この場合に、本質だと承認されている世界、いわゆる「現実」を、絶滅するためには、この由来とこの迷妄という霧の被覆を指摘するだけで充分だ、と考えるものは、なんという愚物であることだろう! 

  • 愚物とは? どのような意味で愚物なのか? ーーこの辺はわかりやすいかもしれない。そして愚物への誘引は、私たちの習慣において、強そうで、それに導かれるのは容易でしょうし、知らず知らず導かれている可能性も高いように思います。
  • とはいえ、現実の偶然性だったり、具体的経験の場にきちんと向きあうことが必要なのでしょう(と、言葉の上では言ってみることができる)。

創造者としてのみわれわれは絶滅することができるのだ!

  • 創造者とは? 創造者であろうとするためには(そんな必要はお前にはないとの声を耳にしつつ)、何が必要なのかしら? どのように実行することが必要なのかしら。