生-政治学

M. フーコーは、生-政治学について進化という生物の次元における歴史との関わりにおいて、次のように述べている。そして、こうした事象を捉えていくためには何が必要なのか(あるいは自分にどのような寄与ができるのだろうか)。

メイール〔Mayr:E. マイア〕が言うように、人類とは「相互にコミュニケートする遺伝子のプール」なのである。諸々の人口群〔populations:集団、繁殖集団〕、すなわち変異の集合が、人類においては、形成されたり、解消されたりしていると考えるべきなのである。そうした集合〔ensemble:すべて〕を描いては消し去っていくのは歴史であって、「自然」の奥底から歴史を有無をいわせず決定しているようななまの決定的な生物学的事実をそうしたすべてに見てはならないのである。
ジャック・リュフィエの著作はこれ以外にもこうした分析を多く含んでいる。それらはすべて重要なものである。というのも、そこには、時間を貫通する人類の統一的で神話的な歴史ではないような「生―歴史学bio-histoire」の問いと、分割と保存とヒエラルキー政治学ではなく、コミュニケーションと多様形態性〔polymorphisme:多型性〕の政治学としての「生―政治学bio-politique」の問いが、極めてはっきりと提起されているからだ(Foucault, 1976→2001: II: 96f.=2000: 124, 訳語を部分的に訂正)。

ちなみに、この引用部分のちょっと前にあるように、もちろん「「人種」などあったためしはない」ということは、ない。この点は、言及されているリュフィエにしても、マイアにしても、げんにそう述べている。紛らわしいのは、ある概念としての人種はあったためしはなくても、べつの概念としての人種はありうるということである。そしてこうした差異について、フーコーにしてもさらにはリュフィエ自身にしても、誤解されがちな単純な書き方をしてしまっている*1
そのうえで、こうした集団と人種について、それがどのようにして可能でありまたそれゆえに政治学となりうるのか、把握しなければいけない。

人種と人種主義・未来 (生物学から文化へ)

人種と人種主義・未来 (生物学から文化へ)

Populations, Species and Evolution

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*1:さらに言えば、リュフィエの訳書の場合、総合説にもとづくraceについては訳者が品種と訳しているので、輪をかけて分かりづらいものとなっている。