「下働きとしての哲学」としての、自閉症の現象学

  • Zahavi, D., 2005, "Theory of mind, autism, and embodiment," Subjectivity and Selfhood, MIT Press, 179-222.

自閉症について、S. バロン−コーヘンらによってなされている心の理論による議論について、その基礎的概念の検討を通じて批判をしていく論文。論旨はとても明快。そして基本的には、強く同意。ただし大きな不満もある。それは最後にしるす。


簡単に言えば、他者理解や自己把握は、心の理論なる装置を用いて他者や自己の行動を説明したり・予見することを通じて可能になっているというのが、心の理論論者。つまりは観察可能な振る舞いと観察不可能な(それゆえ理論的に説明されねばならない)内部との二元論、そしてそれを橋渡しする形で内部を説明してくれるのが心の理論、ということ。そのうえで定型発達者はこの理論を持っているが、自閉症者はこの理論が何らかの理由で欠けている。だから他者および自己の心の状態を理解することができない、とされる。ちなみにここでは、他者理解や自己把握が、もっぱら理論的・推論的・反省的なものとして捉えられている。
これに対するザハヴィの批判は明確。現象学の視点から、他者理解がもっぱらこのような理論的なものであるということはありえず、その基層として非反省的で直接的な他者理解・自己覚知(self-awareness)がある、と述べられる。そしてこの直接理解は、理論的・反省的理解が獲得されたのちにも常に存在している、と。そのうえでむしろ、この直接理解が何らかの仕方で欠けているのが自閉症者ではないか、欠如した直接理解を理論的・反省的理解で代償しようとしているのが自閉症者ではないか*1と、議論をひっくり返していく。
最後に、それでは心の理論論者が自説の証拠として引き合いに出す事例はどう受け止めるべきなのか。つまり、例の誤った信念を他者に帰属できないことを示す事例。たしかに多くの自閉症者がこの課題ができないと言われている。しかしだからといって、この課題ができないということがすなわち心の理論を欠いていることであるなどとは言えない。むしろ、あの課題ができないということすなわち心の理論を欠いていること、などと受け取ることは、心的能力を理論的なものとするバイアスの反映にすぎない。
そのようなわけで、現象学による他者理解の解明は、誤った理論的枠組みを正すことができるのだ、以上。「以上」という感じが残念、というのが僕の読後感。言ってみれば、こうした解明に「下働きとしての哲学」以上の意義が見出されていない。
でも、本当にそうなんだろうか。もっと積極的意義があって良さそうな気がする。たとえば一口に他者理解といっても、いろいろな仕方があるはずだろう。私たちが数式を理解したり、相手の話を理解したり。あるいは自閉をもつ人びとが、自ら編み出した方法を通じて他者の意図を理解したり........。こうした諸々は、それじたい拾い上げてきちんとその組立を確認していく必要はないのだろうか。あるいは現象学の方法的限界なのだろうか。よくわからない。


Subjectivity and Selfhood: Investigating the First-Person Perspective (A Bradford Book)

Subjectivity and Selfhood: Investigating the First-Person Perspective (A Bradford Book)

*1:この点で、O. サックスが描くT. グランディンが参照されている。