社会性の障害?

R. ウィングらによると、自閉症スペクトラムの主要な障害の一つとして「社会性の障害」がある(その他に「コミュニケーションの障害」と「想像力の障害」)。この社会性の障害というのは、どう考えたらよいのだろうか、少し疑問がある。それをきわめてラフに言葉にしてみる。
こうした障害は、日常的な社会生活の形式からの逸脱として、そしてその逸脱が状況特有の問題や年齢などによって理解できないときに、障害として観察可能になる。つまり社会性の障害は、そのつどの具体的な社会的状況とその組織方法を地としながら、その中に参与している特定の者に帰属される形で、存在している(この点は、その他の障害についてもある程度あてはまるだろう)。そして自閉症の原因説明の試みや療育の試みは、その根底においてこのような帰属を前提にしている。
これらの営為は、それはそれできわめて重要なものだろう。そしてその意義は十分に尊重したい。けれども反面、これらの営為についてあらためて考えてみると、そのいくぶん奇妙な特徴も浮かんでくる(ように、現在のところ思っている)。
そもそもの障害の観察可能性は社会的状況に根ざしている。より明確に言えば、障害は相互行為のなかに、相互行為とともに、相互行為の形として、ある。もしそうなのだとすれば、それにもかかわらず問題を一方の参与者のみに帰属するのは、どうしてなのか。また、この参与者の内側のみにその振る舞いの原因を探られるのは、どうしてなのか。さらには、この参与者のみに各種のセラピーやら社会生活の方法のトレーニングが与えられるのは、どうしてなのか。
こんな感じで疑問を連ねていくと、他者を理解できていないのは本当は誰なのか、分からなくなってくる。むしろ自閉症者のうちにその問題行動の原因を探ろうとしている者の方にこそ、問題があるのでは、とも思えてくる。
かりに障害と観察しうる社会的行為があるとすれば、そこにはそのような観察を与える社会的状況がある。そしてこの社会的状況は挙げていけばきりがないが、微細な方法によってそのつど組み立てられたものである。そしてこのような組み立て方を改めていくことによって当の障害に対応していくという物事の進め方と努力が、ちょうど自閉症者に通常の社会生活の方法を教示するのと同じ分だけ、あってしかるべきだと思う*1



そんなことをこの本を読みながら、考えた(あまり関連はないかもしれないけど)。

障害を問い直す

障害を問い直す

*1:しかし、そうした社会生活の組み立て方を改めていく手段として、問題を帰属された者に具わる原因について述べた医学的知識がとても有効だったりするから、事態は複雑である