Omnis cultura ex cultura

少し時間がたっているが『マーガレット・ミードとサモア』から、少し新しめの『やわらかな遺伝子』というやわらかな邦訳タイトルの本や『社会生物学論争史』などなど……。
これらは、「文化決定論か生物学決定論か」という、それじたいが社会(科)学によってなかば防御的に設定されてきた枠組みがもっている問題を、指摘してきた。いわばこの枠組みが、現にその存在を否定できない人間の生物学的な差異や、それと社会的制度との連関を見ていくことを妨げてしまっている、ということ。遺伝について述べることが、この枠組みのなかでは「生物学的決定論」とされてしまい、遺伝にかかわる知見それじたいをどう評価するかができなくなっているということ。
たしかフリーマンは、こうした枠組みの由来のひとつとしてF. ボアズをあげていたと思うのだけど、どうなのだろうか。彼の文化人類学的議論は、むしろ遺伝学的研究を積極的な構成契機するなかでこそ成立していたように思うのだけれども。けれども”Omnis cultura ex cultura”(Lowie)のスローガンのなかで、その点は見えなくなっていってしまったということなのだろうか。