再訪Derek Freeman1983=1995

『マーガレット・ミードとサモア』が気になったので確認のため第1部を再読。久しぶりに読み、あちこち引っかかる点が。言葉が足りないのか、過度に単純化しているのか、それとも僕が根本的に誤解しているのか、いずれか。後ほどきちんと検討したい。

とりあえず引っかかった点を、おおざっぱに、かつ不明確に、箇条書きにしてみる。

(1)氏か育ちかの論争のせいで、両者の連関が問われなくなってしまったとフリーマンは非難調で述べる(そしてそれは、どちらかというと、優生学よりもボアズ学派に向けられている気味が強い)。なお、こうした論点はフリーマンのこの本での最終的な結論でもあるが、こういった非難はアナクロニズムではないか。
そもそも「育ち!」という立場が確立されていないところで(さすがにデュルケムはもっと早く打ち出してたけど)、その連関を見ていくなんてことになれば、ネオ・ラマルキズムともなりかねない。そしてそれはメンデルの遺伝学説を前提に人類学的議論をおこなってもいたボアズにとってはそもそも取れない選択肢のはず。というわけで、無い物ねだりはおかしなはず。

(2)たしかに1916年の"Eugenics"論文は、フリーマンのボアズ観が当てはまるような若干強い主張になっているで特異な論文だ。生物学と人間社会の研究との間に意図的に分割線を引き、対照させる書き方をあえて選んでいるようにも見受けられる。それをもって人間の能力などについて、遺伝による決定を否定して文化による決定を強硬に唱えているとフリーマンに受け止められているようにも思う。
たとえば同書60頁など随所に、同論文からの引用として、何の文脈的説明もないままに、「社会的刺激は生物学的メカニズムよりも無限に強い影響力を持つ」などと引用され、それが彼の立場を端的に示すもののような印象を受けるようになっている。
けれども同論文で、ボアズがやっているのは、優生学の適用領域を限定することであって、全否定ではない(同論文478頁)。ちなみにその適用領域とは、欠陥が遺伝的原因によると証明できるような欠陥者のクラスにたいしてであり、それついては、出生の予防をおこなうべし、と言っている(だからこそ、当時の文化決定論と生物学的決定論を同一平面にある各ヴァージョンとして把握することができるはず)。
ま、話を戻すと、言えないことまで言ってしまおうとすることをボアズは否定しているだけだ。そして言えないこととは、特定人種の精神的劣等性が遺伝的に決定されている、ということ。この点を逆に言えば、言えることは言えるというのがボアズの論点である。そしてこれは生物学を否定していることとは異なる(ちなみにこうした態度は、具体的にはメイソンらに対してなされた進化論への批判的考察にもあてはまるもの)。

(3)特定人種の精神的劣等性がなぜ言えないか。おおざっぱに引っ張り出すと二つ論点があるように思う。
第一に遺伝的な身体特徴にしても、同一の人種内の変異の方が、各人種間の差異の方が大きい(いまや社会学的スローガンと化してるけど)、だから仮に精神的能力が遺伝するとしても同様に、特定人種が精神的に劣っているとは断言してしまうことはできない。
第二に、人種カテゴリーと民族や階層カテゴリーは別。だから、精神的劣等性を人種カテゴリーに帰属させることが誤りのケースが多々あるということ。そしてその場合、そうした劣等性は不変とはいえないことになる。
ともあれ、ボアズは、遺伝を否定しているわけではない。

(4)これとの関連で、フリーマンは「氏か育ちか」とやたらと強調するが、この選択肢が<何についてのものなのか>を省略させて書いている嫌いがある。
ボアズは、少なくとも頭示数等々の身体的特徴の遺伝についてはほぼ肯定している(とはいえその遺伝の仕組みについては1911年の移民委員会報告書に見られるようにいろいろ疑問があるのだが)。この点ゆえ、<何について>かという点を曖昧にさせたまま論じていくフリーマンの叙述は、ミスリーディングだ。
それにこうした身体的特徴について言えば、ボアズはゴルトンをフリーマンが言うほど強硬に否定しているわけではない。むしろ混血児の身体特性の統計的調査などは、ゴルトンとピアソンに依拠しつつ、データに即してつつゴルトンが言うのとは別の遺伝のパターンの可能性を示唆しているにとどまっている。

(5)とりあえずまとめておくと、文化決定論といわれているものの内実は、とりわけ優生学などを念頭に生物学的決定論に対してしかるべき境界を引くことに目的があり、それが適用できないところに文化人類学的議論を適用していく<可能性>を見るというものであるように思う。

関係ないが記しておくと、GrantのPassing of the Great Raceが偉大なる人種の<歩み>になちゃってるなんて、初歩的翻訳ミスもある。

マーガレット・ミードとサモア

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The Fateful Hoaxing Of Margaret Mead: A Historical Analysis Of Her Samoan Research

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