An Indeterminancy in the Past

 Wes Sharrock and Ivan Leudar 2002 "Indeterminancy in the past?" History of the Human Sciences, 15(3), pp. 95-115は、イアン・ハッキングによるRewriting the Soulの18章の中心的テーマである「過去の不確定性」に混乱を見出し、その由来を指摘していくもの。よって1999年になされた評者たちの指摘を展開させたものである。以下、議論の詳細よりも、それぞれの議論の焦点がどこに向けられているのかという点のみを、おおざっぱにメモっておきたい。

 まず過去の不確定性をハッキングはどう論じていたかを押さえておきたい。評者たちの焦点にもなっている原著243頁の第2パラグラフ(評者たちは重要な部分をさっ引いて引用しているのだが)はこうなっている。

 過去にさかのぼる再記述の多くは、明白に正しくもなくまた誤りでもない、と注意深い哲学者として私は言いたい。しかし、過去に対して新しい記述と気づきとを与えることは、政治的戦術として便利なのである。これこそまさに、ド・モーズとドノヴァンがおこなっていることなのである。私たちは、こうした戦術の論理的帰結を認識すべきなのだ。あたかも遡行的な再記述が過去を変えるかのようなことが行われているのだ。たしかにあまりにも逆説的な言い回しだ。しかし、過去の行為を、当時は記述されようもなかった仕方で記述すると、私たちは奇妙な結果を得ることになる。すべての意図的行為は、ある記述の下での行為である。かりに、ある記述が当時は存在しなかったり手に入れることができなかったとしたら、その記述の下で意図的に行為をすることはできなかったことになる。ある人物が当時その記述の下で行為を行ったということが、後になって真実となるのである。少なく見積もっても、私たちはやはり過去を書き換えているのである。それは、過去についてより多くの発見ゆえというわけではなく、行為を新たな記述の下で提示するがゆえにである。
 おそらく、人間の過去の行為は、ある程度は不確定であると考えるのがよいのだろう(Ian Hacking , 1995 Rewriting the Soul, Princeton U. P., p. 243)。

 まず、遡行的再記述についてハッキングはその真偽において問題にするのではなく、戦術として、ゆえにそうした再記述が言語と行為の論理への帰結に注目する視点を提示する。つまり真偽を括弧に入れ、そのことで真偽をあらそう議論の場じたいを現象としていることになる。ついでやはり真偽はさておき、こうした再記述のもとで生じる事態をひととおりなぞっていく。それは、新たな記述の下で、過去の行為が書き換えられるという「奇妙な結果」だという。
 ここでポイントとなるのは、最初の二つの文だと思う。つまり現になされている遡行的再記述をその真偽について判定することではなく、むしろその戦術とその帰結に注目するという視点。言い換えれば、なるほどそうした再記述は「奇妙」なのだが、むしろそうした再記述を戦術として、その論理的帰結に注目してみる視点。
 「……人間の過去の行為は、ある程度は不確定であると考えるのがよいのだろう」という文も、ただ上記で提示された視点を推奨しているにすぎない(と思う)。

 さて、ではシャロックたちは、この点をどう読んでいるのだろうか。正直、彼らの議論は、形態は異なれどもハッキング同様、かなり分かりづらい。でもポイントだけ抜き出すと、こうなると思う。
 シャロックらは、ハッキングが過去の不確定性に思い悩んでいると見る。そしてその悩みは、ハッキングが記述の時制を無視するから生じる偽問題だ、と指摘する。つまり、ある行為がなされた時点での記述Xと、後の時代においてその行為を記述する記述Yとは、仮に対立関係に入っているとしても、並列するものではない。つまり、同時代において相並びつつ対立する二つの記述というわけではない、と。
 だから、事後に現れた記述Yによる書き換え(これが過去の不確定性をもたらす所以だが)と言われているものも、実は書き換えではない。Xは当時の記述であり、Yはのちの時代から当時の行為を記述しているだけなのである。
 しかしシャロックたちが見るに、ハッキングはこうした記述がなされる(た)時点の問題をネグっている。だから複数の正しい記述がたがいに対立しつつ併存しあい、よって過去が不確定だとハッキングが考えてしまうのだと指摘する。
 
 なるほどなるほど。確かにその通り。ただし、「過去の不確定性」なるものをハッキング自身の存在論的主張として理解する限り、での話しだけれども。
 んで、現在のところの僕の理解では(まだハッキングのリプライはろくに読んでいないので心許ないけど)、「過去の不確定性」をそのように受け取ることはできないように僕は思う。つまり、シャロックたちは、上記の引用部分がハッキングの議論のなかで果たしている機能を見誤っているのではないか、と僕は考えている。
 遡行的再記述の真偽の問題は、(社会学の方法論者のような)論者によっては大問題なのだろうが、上でも触れたけど、ハッキングの議論にとっては実は問題とはされていない。むしろ、そうした真偽判断を括弧に入れ、真偽が争われているそういった遡行的再記述が、いかなる戦術の下にあり、またいかなる論理的可能性を帰結していくのか(これは例によってルーピングということになるのだろう)--こうした点にこそハッキングは焦点を当てている。んでこのような点を注目すべき現象として見ていく上でも、「過去は不確定と見るのがよい」と言っているように思える。言ってみれば、あくまでも方法上のプラグマティックな態度と言えるかもしれない。
 とすればどうだろう。シャロックたちの指摘と治療的分析(?)は、ハッキングが対象としているような再記述に対する教育的介入としてはあてはまるだろう。いってみれば、そうした再記述が真偽をめぐって争っている場に自ら入り込んでいって混乱を指摘しているという感じ。しかしシャロックたちはこうした介入を、ハッキングに対するものとして提示しているのだから、これは的を外しちゃってるなーと思った(僭越ながら)。