言われ続けてきたことだけど……

こういった内容↓は、さして新しいことではない。たとえばこの著者も言及している、ベンヤミンによる理解が代表的(最近の変奏としてハッキングのもの)。

ベルクソンにとって、ヘルムホルツの「無意識的推論」は、知覚を機械的で自動的なものに変え、現在へと機能的に潜入させるのに適していた。しかし、ベルクソンは、記憶と知覚の間にある承認や調整の関係よりもむしろ、二つの間に発生する「亀裂」に興味があった。そのような「亀裂」は、記憶が、順応の働きから現在の知覚を引き離すようなやり方で、この現在の知覚を変容させるときに生じうる。<中略>
このように、ベルクソンのこの時期〔=初期〕の著作は、受動的で自動的な知覚行為に対してひとつの大きな懸念を表明していた。そもそも、歴史的に見れば、『物質と記憶』という著作の出現は、あらかじめつくられたイメージが受動的に消費される映画や録音音声などの技術的操作によって、自動的な知覚がさまざまな形態のもとに構築されていった時期と符合している。(Crary, J. 1999 Suspensions of Perception, M. I. T. Press. =岡田温司(監訳)2005『知覚の宙吊り』平凡社, 303-7頁.)。

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化