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少し時間があるので、これまで気になっていた基礎的文献などを読み直している。今日はこれ。

  • Sacks, H. [1972]1986, "On the analyzability of story told by children" in Gumperz, J. J. & Hymes, D. eds. Directions in Sociolinguistics, Basil Blackwell, 325-45.

この文献のなかに、見る者の格率とか聞き手の格率などがでてくる。これがこれまですごく気になっていた。なんでこんなこというのだろうか、と。少し飛躍気味だが考えてみた。結論から言えば、カテゴリーや概念を分析していくエスノメソドロジーのスタンスが、ここからもわかるように思う。
これらの格率は、議論のなかで、カテゴリー化装置とは(もちろん)異なる位置づけにある。これらの格率は、「〜と聞こえるならば、そう聞け」「〜と見えるならば、そう見よ」と述べている。一見、装置の使い方、装置の使用規則を定式化しているように思える。
けれどもそうではない。こうした道具立てから読み取れるのは、カテゴリー化装置などによる天下り的説明の拒否だと思う。たとえば記号論的説明にしても、認識人類学にしても、これらは、見るという経験を、一定のカテゴリー的道具立てで説明するものである。つまりこういったカテゴリー的文法・体系がある。だからこう見えるのだ、というかたちで議論を進めてゆく。要するに、研究者が定式化し、それによって人々の理解が説明される。こうした構図で優先される現象は、カテゴリーの体系であり、文法である。ある意味で実践は、こうした体系によって導出される。
他方サックスは、この格率を忍び込ませることで、優先される現象が実践であり、そのとき不即不離に装置があるということを示している。「見えるとき、そう見よ」。要するに見えるかどうかはここでは不問になっている。見えるはずだとも見ているハズだとも思わない。ただ、見えるとき、装置がある、つまり[見えること=装置の使用]。そして装置を定式化したからといって、実際にそう見るのか、聞くのか、要するにどう実践するかは、全く別の問題なのである。つまり重要な事柄は、定式化のかたちで出てくる装置ではない。重要なのは見えるかもしれないということであり、そう見えるということはすなわち装置の使用である、ということである。
装置が定式化できるからといって、実際にどう見るか、どう聞くかは別なのである。それは実践の問題であり、さらに余計な言い方をすればそれは実践=装置の問題。
Directions in Sociolinguistics: The Ethnography of Communication