テクストを(もう少し)分析する

  • Watson, R., 2009, Analysing Practical and Professional Texts: A Naturalistic Approach, Ashgate.

相変わらずこの本についてです。年始から今日までは*1この本の読書中につけたメモや関連した論文に目を通したりしていました。そんなわけで、ようやく今日でこの本からひとまず離れることになります(長かった!)。そこでこの本とのしばしのお別れに、印象に残った点を再びしるしておきます。
社会科学のテクストを社会生活を形成するための文化的資源の分析の場として利用していくことができるという点は、2009年12月10日にもしるしました*2
これはつまり社会科学のテクストについて、著者の文体を分析するのでもなくまた「テクストを読む方法」一般を分析するのでもなく、私たちが暮らしている社会について説明(再記述)するテクストをまさにそのようなものとして理解する方法を分析する、ということになるかと思います。こうした分析は、日々用いている馴染みの概念が別の概念にそれじたい意味あるしかたで結びつけられまた新たな連関のもとに置かれていくのを理解したり、さらにはある「洞察」に導かれて社会を新たな枠組みで経験していくといった実践を分析していくことになるのだと思います。このような意味で、社会科学のテクストは積極的なデータとして利用することができる――著者は本書の末尾でこのように述べています。引用しておきます(引用部分は120頁からで、ゴフマンのテクストを分析したあとのまとめに当たる箇所です)。

ゴフマンの分析にみられるカテゴリーに関する作業は、……根底的に、自然的態度の次元にある常識的なものである。こうした観察の系として得られるのは、ゴフマンの分析はそれじたいデータとして、すなわち分析の対象として扱うことができるというものである。……非文学的著作に文学的分析をおこなうというK. バークの関心は有益だろう。また私の分析もこの流れに貢献できればと考えている。しかし私が示そうとしてきたのは、「文学的」分析は日常的基盤に依拠している度合いがはるかに高いということである。この点については、食い違うわけではないにしても、バークのアプローチでは判明でなかった。ゴフマンの著作は、テクストを場とした常識的手続きのアンサンブルであり、それ独自の主題として分析されるべきものなのだ。目下の分析が推奨しようとしているのはこのような立場である。


Analysing Practical and Professional Texts: A Naturalistic Approach (Directions in Ethnomethodology and Conversation Analysis)

Analysing Practical and Professional Texts: A Naturalistic Approach (Directions in Ethnomethodology and Conversation Analysis)

*1:年末はダラダラしてました。

*2:http://d.hatena.ne.jp/Minik/20091210