科学(者)のなかの哲学(者)

哲学の生存戦略とそのアジェンダーとの副題をもつ論文の中の一節から。

 科学者も探求の或る局面で、複数のリサーチ・プログラムの優劣を論じたり、ある結果を発見といってよいかどうかを考えたり、これまで使ってきた概念を整理したり、複数の理論の相互関係を考えたりといった、「哲学的・認識論的」な考察や論争を行うことがある。重要なことは、こうした「哲学的」「思弁的」な作業と、実験、観察、シミュレーションの計画を立てる作業、プログラムを組む作業、データを集める作業...は連続しているということだ。それは哲学者の専売特許ではない。認識論はメタ科学ではなく、科学内部の活動と考えるべきだ。
 私はこの点をエスノメソドロジーから学んだ。エスノメソドロジーの探求の方法は、「知っている」「発見」「説明」「確実だ」というような認識論的語彙が科学者の日常的研究活動にどのように組み込まれ、働き、科学者に共通の「科学的事実」を構成することになるのかを微細に記述することにある。「世界と表象」、「データと理論」、「対象と知覚」というような古典的認識論の二局構造は、科学者の探求のその場で、たとえば「これって発見なんだろうか」、「もっと正確に言ってみてくれ」というような会話を通じて展開されている、いわば「生きられた認識論」を隠蔽(ガーフィンケルの用語で言えばmasking)してしまう。エスノメソドロジーじたいは、「リアリティ」はこうした実践を通じてその場その場で構成されるものだという強烈な観念論的傾向をもっているので、私はとても賛同はできないの〔だ〕けれども、認識論は科学に埋め込まれている科学内部の活動だという論点に関してはまったく賛成だ。(戸田山和久, 2002,「科学(者)のなかの哲学(者)」『哲学の探求』29, 15-30.)

最後の文の前半は強烈な誤読傾向をもっているので、私はとても賛同はできないのだけれども、科学内部で生きられている認識論にともに取り組んでいこうという論点に関してはまったく賛成だ。