病院の外で――お悔やみに関する覚え書

  • Sudnow, D., 1967=1992『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学せりか書房.

表題の論文は、この書の第6章。
今年度の大学院での授業は、病気や死に関係する質的研究をあれこれ読みながら、ディスカッションすることを中心に行っている。ちなみに前回はグレーザー&ストラウスの『死のアウェアネス理論と看護』の第5章「相互虚偽」の儀礼ドラマ」。そして今回はサドナウの『病院でつくられる死』の第6章「病院の外で」。
同じく病院およびその周辺における死を主題としたエスノグラフィーとはいえ、スタイルは大きく異なる。
ストラウスらのものが、ゴフマン的なアナロジーを通じて死の認識をめぐる相互行為のとる特徴をあえて際だたせていたのに対し、サドナウのものは死という出来事が親族や仲間といった諸々のカテゴリーと結びつけられたところに成立している実践をねちねちと何度も旋回しながら記述していく。
インパクトが強いのは前者。しかし、それはアナロジーゆえのもので、死をめぐる駆け引き内側から描かれているとは実のところ言えない。むしろそのような駆け引きってありそうだしまあ理解できるよねという先入観に強く依拠しながら、したがってその駆け引きや経験の論理を解明しないまま、アナロジーが提示されそのもとにエピソードが語られていく。これのどこがグラウンデッドなのかは実のところよく分からない。観察し、記述すべき対象やその対象がどのような性格を持つものなのか、分かっていないのではないだろうか。
この点と比較すると、やはりサドナウはすごい、というのが感想。ちなみに、今日の病院周辺において病や死、誕生は、どのような仕方で親族などのカテゴリーと結びつきながらどのような実践と経験をもたらせているのだろうか、という問いがこれからの課題となるように思いました。

病院でつくられる死―「死」と「死につつあること」の社会学

病院でつくられる死―「死」と「死につつあること」の社会学