コミュニケーションのあまりぱっとしない能力について


最近では、「コミュニケーション能力」というものが、様々なところで求められている。たとえばこの能力は、国の教育政策のなかで大学生に求められる能力として位置づけられている。また、受験や就職活動をしようという人たちは、いやでもこの言葉を意識せざるをえないだろう。
けれども、そこで言われている「コミュニケーション能力」とか、コミュニケーションって何だろうか。健康という主題には直接に結びついてこないかもしれないけれど、こうした問いについて、少し力を抜いてちょっと考え直してみたい。そしてそうすることで、より自分らしいコミュニケーションや人との信頼関係を作りあげることができる(かもしれないが、そうでないかもしれない)。


コミュニケーション能力って?
コミュニケーション能力と言われて、どのようなものをイメージするだろうか?大学教育や就職活動、職業において必要な能力とされているコミュニケーション能力とは、たとえば人前で理路整然と説明することができたり、しっかりしたプレゼンができたりなどのように、一般に、話すこと――なかでも、あらかじめ与えられた役割として一定の内容を話すこと――が、コミュニケーション能力ということでイメージされることのように思う。
このようなイメージから抜け落ちてしまっているのは、たとえば聴くことというコミュニケーションに不可欠な行為の能力であり、とりわけ見知らぬ人どうしの会話に付きもののコミュニケーションの曖昧さ、ゆるさである。こうした能力やゆるさは、あまりパッとしないけれど、とても重要だと思う。


聴くという行為
まず、聴くという行為を考えてみたい。聴くということは積極的な行為である。それは、「聞こえている」ということとは異なる。たとえば、電車に乗っていたりすると、乗り合わせた見知らぬ他人のおしゃべりの声が聞こえてくる。けれども、それを聴いてはいない。言い換えると、相づちを打ったり、共感の合図を示したりという仕方で話し手の話を積極的に支えてやるようなことはしない。そんなことしたら、見知らぬ人は逃げていく。
反対に、日常の会話においては、このような聞き手の積極的な行為がなくては、話し手はほとんど何も話すことができない。この意味で、コミュニケーションとは、語り手と聴き手とが積極的に協力しあって組み立てられている。一方の者が語っているときには、必ずそこには聴き手が相づちや視線、頷きなどに支えられて行われている。コミュニケーション能力といったとき、こうした聴き手の能力が見落とされがちである。しかしこうした聴き手の能力というのは、日常生活においてたとえば家族や職場において信頼関係を作るために不可欠な能力だろう。


コミュニケーションの曖昧さ
つぎにコミュニケーションの曖昧さについて考えてみたい。多くのコミュニケーションの多くは、自分と相手の役割や、何がどのように、いつまで話されるべきかについて、筋書きが決まっていない。そのようなケースは、初対面の人と食堂や電車で相席するようなときに生じる。「この人は誰なのだろう?どのような話題を話すべきだろうか?どこまで踏み込んで話すべきだろうか?――そんなことに戸惑う人は多いと思う。
その戸惑いの由来は、一言で言えば、コミュニケーションの相手の価値観や知識状態についての情報の不足にある。つまり、「この相手が誰か、そしてこの相手が何を知っていて何を知っていないか」が、分からない。だから、これにあわせて、自分が何を語ったらよいのか分からない、ということである。
こうした曖昧さのなかで、私たちは曖昧ながら一歩一歩確かめるように慎重に、もじもじとしながら、言葉を交わす。例えばだれでもが話せる天気や大きな事件のようなことからやりとりを始め、そこで分かった相手についての情報(相手の価値観や知識状態)にもとづいて、新たに話題を導入する。そのような仕方で、相手との関係を徐々に近いものにしていく。
こうした曖昧さに対処しながら、相手についての理解を深め、人と関係を作っていく能力――「もじもじ力」と言ったらよいだろうか――も、見逃されがちだけれどもコミュニケーションの能力として重要だと思う。


というわけで....
あまり注目も重視もされていないけれどもコミュニケーションを行うにあたって重要と思われる能力や事柄について、触れた。これらはあまりパッとしない事柄や能力かもしれない。うん、たしかにパッとしない。けれども、これらに支えられながら日頃のコミュニケーションが成り立っていることを意識し、積極的に実践していくことも、人との安定した信頼関係を作っていくにあたって欠かせないのでは、と思っている。


....というようなことを、あるラジオ番組でボソボソと話してきた。なんとも紋切り型ではあるけれども。