「普通の人生」

  • Atkinson, M., 1980, "Some practical uses of "a natural lifetime," Human Studies, 3, 33-46.


【目的】この論文の目的は、「普通の人生」とか「自然な人生」といったものについての概念について、それがどのようなときにどのように用いられているかを、明らかにすることだ。具体的に言えば、どのように人は人生を通過していくのか。どのような段階・順序があり、それぞれにはどのような特徴があるのか。
普段は一切そんなことを語ったりしない。その意味でこれらは自明視されている。けれどもそのようなものを前提にして私たちの生活ができていることは、数々の「普通でない」考えや語り方、行動を「見つけ」またそれに「直面し」たときに私たちがとる振る舞い仕方に、明らかである。
たとえばこの論文の冒頭に引かれた、幼いままでいたいというピーターパンの願望。これを「非現実的」とか「空想的」と扱う場合(これは、年齢の違いを使って、実質的にM. ポルナーのいうリアリティ分離を行うようなものだ)。あるいは、逸脱例や成長などについて、それらを「注目に値するもの」として「注目し」、「語るに足るもの」として「語り」、「説明が必要」なものとして「説明する」。こういったさいには、「普通の人生」は資源として前提にされている。
そしてこの論文は、こうした具体的な記述や活動をとりあげ、人生の段階にかかわるもろもろの概念やそれと慣例的に結びついた活動や特徴といった道具立てを使って、明確にする。


【問題】人生の段階をとらえる概念には、例えば乳児〜少年〜老人とか、小学生〜高校生〜大学生などといったものがある(H. サックスはこれを「人生の段階」というカテゴリー化装置として、分析の対象としている)。こうした概念群には、一定の秩序がある(具体的に「これ」と断定できないが、こうした概念を用いる人は、そこに何らかの秩序を想定して用いているだろう)。たとえば概念間の順序だった秩序が想定されている(「成長」とか「右肩あがりの人生」だとか、あるいは「降りていく人生」とかといった、ある一定の流れが想定されている)。またそれぞれの概念は、活動や性質、能力などの概念と自然に理解できる連関が想定されている。そしてこうした概念は、複数の人物や、相異なる時点での同一人物に、用いることができる。そして後者の場合、その時間的な変化が、成長や退行といった移行・変化であることが含意され、あるいは明示的に記述される。
そのうえでこうした概念群がどのような場面で用いられているかというと、たとえばある人物の特徴を注目に値するものとして着目したり評価したり、成長として把握したり、退行として問題視したりする。さらにはそうした変化を、理解できるように時間的に説明したりする。
こんな時に、人生の段階にかかわる諸概念とこれを用いた「普通の人生」なるものが、用いられている。


【事例】例を挙げると、こんな感じだろう。店の商品を持ってきてしまったある幼児について、その将来(「大人」の時の状況)を想定して、語る。たとえば育て方に問題あるものとして、現状を語る。こんな育てられ方をすると、将来盗人になる。だからその現在の振る舞いは、万引きの始まりだ、と(あるいは「嘘つきは泥棒の始まり」などと言ったりしないだろうか)。
たしかに現時点では、その子に幼さを想定するゆえに、その子の振る舞いを「盗んでいる」といった言葉で把握することも、盗む意図を帰属することもしない。しかしそのような状態で過ごした先にある「将来」において、そこ子はそうした意図を持ち始めると予想するかもしれない。こうしたとき、「将来」を前提にして「現在」の状態を「問題」とする。

また別の例。対象となる人物を見ていると、たとえば「小学生」とかではなくて「幼児」として見ることができそうである。そうすると、そこからこの人物に一定の能力(あるいは無能力)が想定されることになる。しがたって、この人物が行っている振る舞いをたとえば「皮肉っている」などというちょっと複雑な行為をしているとは把握することはできない。だから「<あたかも>皮肉ったかのようなことをした」と把握されることにあり、「なんか笑える」とか「すごい!」といった、「注目に値する」「語るに足る話」となる(この辺と関係するのは、司法領域における年齢と帰責の問題である)。
このように、用いられる概念群が、行為についての認識・評価の仕方を左右している。

さらに別の例。ある行為者の性質や状態についての評価において、人生の段階の概念群が用いられる例。たとえば、行為者に「注目すべき」点や問題を見いだすこと。そして、(ほかでもありうるなかで)人生の段階の概念群によって、見たり語ったりすることがある。たとえば「大人げない」とか「幼児的だ」、「早熟だ」「いい年して」といった評価(B. ウィリアムズのいう「濃い倫理的概念」にあたるのだろう)。こうしたとき、人生の段階の概念連関の順序性が想定され、そこからの逸脱が観察、評価、診断される。さらには、こうした逸脱を、人生の段階カテゴリーを用いて説明する。この場合、説明は、成長や発達上に関連づけた説明となるだろう。
精神分析発達心理学などが行っているのはそういったことだ。たとえば、逸脱に結びつきのある出来事が、当人の前史に探し求められる。すなわち、関連するだろう何らかの「顕著な」出来事が、自然な人生に即して探し求められる。そのうえでこうした過去の出来事によって、現在の状態が意味づけられ、説明される。

現在と過去との相互構成的な関係。H. ガーフィンケルは、これをドキュメント的解釈方法と呼んでいた。ここでは意味づけ説明する過去は現在の顕著さを出発点に特定され意味が与えられる(遡及的な意味づけ)。そしてこの過去によって、現在はその意味を明確にされ、説明される(遡及による意味づけ)。


【含意】アトキンソンは、こうした人生の時間のことを、自然誌(natural history)と呼ぶ。そしてこうした自然誌は、個人のほかにコミュニティや社会、結婚などの社会関係にもあてはまるという。そして検死官などが行っている作業も、ガーフィンケルアトキンソン自身が明らかにしたように、こうした一例である。さらには社会学者いうキャリア(たとえばゴフマン由来の「道徳的キャリア」)も、こうした方法的知識の産物である。このように、社会学的分析における常識的な知識を特定する作業にもなっている。
このような形で、人生の初段階をなす概念群やこれと結びついた諸概念からなる「普通の人生」「人生における普通」というものは、具体的観察や説明を作るさいの方法的知識となっている。社会学的知識についても、同様である。こうした方法的知識がそのつどどう使われ、どのような特徴を備えた帰結をもたらせているのか。こういったことを特定していくさいに役立つ論文だろう。個人的にはこの辺りを用いて、年来の課題にもう一度もどってみたいと考えている。