檜垣立哉2000

ベルクソンの哲学』の続き。
ベルクソンは、何度も手は出してみたものの、分かったと思えたことがひとつもない人。そもそもイマージュっからして、全然つかめてない。んで今回、この本を読んでみてもこの印象は変わっていないけれど、いくつか得られたものもあった。それは潜在性と現実性という対のポイントについて。たとえば259頁の叙述から。

存在(=光)は「屈曲点」であるわれわれを通過しながら、それ自身の部分がイマージュとして表出されていく(それが運動イマージュであるだろう)。その表出にともなって、全体そのものは把握を逃れて潜り込む。しかしあらゆる表出は、いつも全体に向かう変化を、全体に開かれる関係を含意してしまう(時間イマージュ)。だから全体という審級は、差異線の向こう側というよりも、むしろ経験とその過剰とでも名指されるべきだろう。経験がそこに内属し、それに触れてはいるものの、それ自身は経験に対してあふれ出てしまうもの。すべてを現実化して引き受けることは出来ない実在の過剰な総体。

経験の記述にとり、なにかと有用ではないかと(ひどく初歩的な話しのようで申し訳ないのですが)。